MY OWN LANDSCAPE


(San Francisco, 1956   −Robert Frank)


最後のセメスターの最初の1週間が終わった。僕は今図書館にいて『現代アメリカ写真を読む デモクラシーの眺望』(日高優)という本を読んでいる。夏に日本で買ったものだ。STUDENT DIRECTED PROJECT というアートの授業をとっている僕はこの留学生活の集大成と勝手に授業中に宣言して、アメリカと自分の関係性を追求してみることにした。そのためのリサーチとして読み始めたこの本、まだ半分ちょっとしか読み終えていないけれど、なんでもっと早く読んでおかなかったのだろう、と思う。卒業を控えるころになってこんなに興奮する、まあそんなもんだろう。

冬休み、ロサンゼルスのMOCAでロバート・フランクの“THE AMERICANS”を生で目にした僕はきっと感動していたんだろう、自分の写真にも彼と似た視線を探し始めている。スイスで生まれアメリカに移住してきたフランクが感じた外国人としての孤独感や、そんな彼がアメリカを見つめる「異邦の眼」に、自分も共感できた、はともかく惹きつけられ、嫉妬した。「LIFE」誌等に見られた戦後アメリカの大量生産・大量消費型デモクラシーの輝き、豊かさの顕示とパクス・アメリカーナ、そんなユートピアとしてのアメリカのイメージに、「アレ・ブレ・ボケ」という撮影者の運動痕跡を残す手段で、均一化された(イメージとしての)アメリカに彼独自のパーソナルなアメリカをその時代に残した。

そして60年代から70年代にかけてフランクの影響を受けたリー・フリードランダーやゲイリー・ウィノグランドの提示した「社会的風景」=SOCIAL LANDSCAPEという考え方は、それまで自然だけだと捉えられてきた「風景」の概念を変えた。それは人間を含む風景の発見であり、写真家と被写体との距離や関係性を再構築する試みでもあった。

そして現在、誰もが写真家となりうるこの時代で、「風景」は無限に広がる。

今僕の目の前に座っている黒人女性、その後ろを通り過ぎたアジア系の留学生、そしてこの記事の画面、すべてが僕にとっては風景であり、それは限りなくパーソナルである。しかし一方でそれが他者に共有、経験されうる視点、風景であることも確かであり、そうでなければロバート・フランクのあの写真たちが僕の心に訴えかけはしなかっただろう。きっと僕はどこかであの50年代の澱んだアメリカを知っていたのかもしれない。たとえそうでなくとも、ロバート・フランクの写真が今の自分にそう思わせること、その追体験の感覚が今日僕を暗室へ向かわせている、そんな気がする。



(San Francisco, 2010   −Keisuke Morikawa)