memo for the final project


写真のクラスのファイナルプロジェクトについて考えている。写真表現における、CONDITION、RESEMBLANCE、POSITION、 LOCATION、MIXING WITH OTHER MEDIA、がこの学期を通して授業でやってきたことだった。エレベーターを使って写真の持つ垂直運動を映画の運動と比較してどうにかして表現したい。すごく比喩的っていうか概念的、ていうか僕のやろうとしてることはほとんどそんな感じ。文字、音、の中でのヒエラルキーの存在の検証。何が何に先行、優先しているのか。ちょっとゴダールっぽいことをしようとしてしまっているのだけど。ゴダールに言わせれば映画の中で映像と音は対等である、そして音が映像に先行したりする=ソニマージュ(SONIC+IMAGE)。映画が時間軸を持つ平行運動であると仮定するならば、写真は物理的にいえば時間を持たない垂直運動。でもそもそも時間は横に動くのか、縦に動くのか、線分図なのか、時間割表なのか。そんなこと考えると自信がなくなるのだけれど、僕の中では時間はなんとなく横なのであるからまあそれでいいとしよう。だって写真のネガとか、カレンダーとか?映画そのものも垂直的な構造を含んでいるはずなのだが、今回は単純化するしかない。でも写真にとってそれが垂直であるということはその場合に階層的な記号の解釈をより可能にさせる。これはある意味矛盾である。写真はかつてそこにあったもの=それこそ時間(多くの場合、それは過去のこと、たとえば記憶として懐かしむ)を解釈する媒体であるはず。つまり時間はそれ(写真)を見る人の内に存在し、そのつど生成、創造されるものだ。映画があからさまに、それを見る人と同時に進行する比較的に時間を意識しやすいものであるなら、写真はもっと不安定で単発。壁に飾られた家族の写真にとって、それを見つめるべき自分がその場にいないとき、時間は流れているのだろうか。写真は見るものがいて初めて時間が流れるんじゃないんだろうか。そして映画にとっても、たとえば誰もいない映画館で映画が流れているとき、その映画にとっての時間っていったい何なんだろう。映画と写真の関連でいったら、映画がその動きをポーズされて、それが一枚の写真として提示されたとき、それは依然映画なのか、果たして映画は写真になることができるのだろうか。普段生活していたら本当にほんとうにどうでもいいことなのだ。でも目に見えるものについて考えることは、世界の見方を変えてくれたりすると思う。だからどうでもよくない。そもそも、ドゥルーズを読まなければやってはいけないことなのかもしれないけど。