忘れものの森

午前3時の図書館にも結構人がいるもので、部屋に1人でいるときには感じない世界がここにはある。パソコンに向き合っているそれぞれの表情を見ていると、その人にとっての世界はもちろんその人を中心で回っていて、みんなまわりのことはまったくみえていない、ように見える。無数の主観的な世界が集まる1つの世界に自分がいると思うと、ちょっとは楽になる。だってこの世界にとっての自分なんて存在しないんだから?そんなマクロな見方が今の僕には必要で、実際そういう風に世界を見ることによって自分は救われるのかなって思う。なんていうか、エネルギーをもっと外へ外へ、人とのつながりの方へ広げられていったら、そしてそれを通して跳ね返ってくるもののなかに素晴らしいものが隠されているということをもっとちゃんとわかって生きていられたら、もっと違う風に考えて日々を過ごすことができるんじゃないかって。ずっと自分自身のことに興味はあったけど、自分がどうしたいとかどうなりたいかっていう思いと、自分がどんな人間であるかと振り返って考えることはまったく違うもので、自分にとっての自分と、周りにとっての自分をまったく同じようにとらえてしまっている自分がいて。ぜんぜん何もわからないけれど、そして結局は自分のことが1番大事っていうのは変わらないのかもしれないけれど、いつまでも自分であることしかできないのだから、自分の外にある世界の中にいる自分っていうのをもっと大事にしなきゃいけない。当たり前のことが難しい、でも当たり前だから簡単にできると思ってしまう、でもやっぱり難しい。自分がどういう風に考えているとか、物とか人に対する視点とかを見過ごしてしまっていることがすでに自分勝手で、そんな自分のことを外から見ている自分に乗り移らないと。ほんとはこんなこと考えなくてもいいほどでなくちゃいけないんだけど、忘れものが多すぎる。それにこうやって考えてること自体すべて都合のいいことなのかもしれないけれど。