Taste of the DrPepper

DrPepperを飲んでいるのには理由があって。


今アートのビルで卒業制作についてのレポート書いてる。
廊下にはいつもとは違う黒人の清掃員。床がやけに光っている。


"I wouldn't walk down here. You see the sign?"

"Is this wax you workin? I though you were just cleaning. I wanted to get something to drink at the vending machine."

"Yeah it's wax, the pictures on the wall look good with that. Well it'll take a while to get dry, like for about ten minutes. I'll knock the door for you."


しばらくすると、チャリチャリという鍵束の音とともに誰かがノックする。そこには先ほどのドレッドの黒人がいる。

彼は僕にドクターペッパーを手渡し去っていった。

鼻がどれだけ詰まっていてもこの味は忘れない。

最近毎日アートのビルのラボにこもっては2週間後に迫った卒業制作展の写真の準備をしてる。写真の配置、レイアウト。これは考えれば考えるほど抜け出せなく作業で、どこかで踏ん切りをつけないからこうやって毎日同じことを繰り返してしまう。でも卒業制作とは偉そうにいったものので、日本の美大のそれのような洗練さとはかけ離れているんだろう。そもそも映画学専攻の自分が映画のことほうっておいて卒業前になって写真展示のための印画紙とかパネルとかについて考えてるとは思わなかったし。まあそれでもここ1年は映画よりも写真に力を入れてきたと思ってるからその集大成みたいな形になっていいんじゃないか。きっと写真っていうよりも目にするものに対して敏感になってきているだけなんだと思う。風景を動詞化させる、それは風景にをより感傷的、ノスタルジックに見つめていたい今の自分の心境のせいなんだろう。

横道世之介

吉田修一の『横道世之介』を読み終えた。彼の長編はほとんど読んでいるけれど、本作が自分にとっての最高傑作になるような気がしてならない。思い入れのある小説や映画の初見のあとに覚えるのは、感動とか清々しさではなくて、(今回は世之介の)作品世界から自分の現実世界へ引き戻された、この2つの世界の断絶に対するわだかまり、いってみれば想像の世界を自身が去ってしまったあとの強い名残惜しさである。平凡で退屈な現実世界をこれほどまでに共感できる、愛らしく、かつそれを他者の視線や記憶と混じり合わせながら1つの物語を作り上げる作者の小説家としての態度は、自分自身を創作意欲に駆り立てる。

『パレード』において同作者が持ち出した「マルチバース」という概念を、この『横道世之介』では世之介と関わった人の記憶の集積というかたちで再び用いられていると思う。前者では「マルチバース」というものが1人の人間がどこにも存在しないことを言うために利用されたのに対して、今回のそれは複数の記憶が多かれ少なかれ確実に1つのある意味で共有された世之介の記憶、人間像を描写するという逆の意味で用いられていると感じた。

そして、自分がどんな人間になりたいという思いよりも、人にとって自分がはどんな人間であるのか、なりたいのか、さらにはどんな人間として思い出されるのか、そんなことを考えさせられた。