横道世之介

吉田修一の『横道世之介』を読み終えた。彼の長編はほとんど読んでいるけれど、本作が自分にとっての最高傑作になるような気がしてならない。思い入れのある小説や映画の初見のあとに覚えるのは、感動とか清々しさではなくて、(今回は世之介の)作品世界から自分の現実世界へ引き戻された、この2つの世界の断絶に対するわだかまり、いってみれば想像の世界を自身が去ってしまったあとの強い名残惜しさである。平凡で退屈な現実世界をこれほどまでに共感できる、愛らしく、かつそれを他者の視線や記憶と混じり合わせながら1つの物語を作り上げる作者の小説家としての態度は、自分自身を創作意欲に駆り立てる。

『パレード』において同作者が持ち出した「マルチバース」という概念を、この『横道世之介』では世之介と関わった人の記憶の集積というかたちで再び用いられていると思う。前者では「マルチバース」というものが1人の人間がどこにも存在しないことを言うために利用されたのに対して、今回のそれは複数の記憶が多かれ少なかれ確実に1つのある意味で共有された世之介の記憶、人間像を描写するという逆の意味で用いられていると感じた。

そして、自分がどんな人間になりたいという思いよりも、人にとって自分がはどんな人間であるのか、なりたいのか、さらにはどんな人間として思い出されるのか、そんなことを考えさせられた。